歴史
創業
明治18年(1885年) | 初代、兼次郎が文京区本郷3丁目に鮨屋を開業。 先代は、青山穏田(現在渋谷区神宮前5丁目辺り)にて、お屋敷相手の出張専門の鮨屋を営んでいました。 当時、出前に行く先の家紋を笹の葉で型取り、重箱の中に入れていたそうです。 |
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浅草へ
明治21年(1888年) | 当時繁華街であった浅草へ移転。 浅草区馬道(現在台東区浅草1丁目) 関東大震災により店を消失するも復建。 |
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戦中
昭和16年(1941年) | 日本は太平洋戦争に突入。 |
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昭和19年(1944年) | 戦争が厳化し、米・魚等も配給制となる。 その日仕入れられる米や魚の量も限られ、 一日限定数食の販売となった。 |
昭和20年(1945年) | 東京大空襲。 浅草は焼け野原となり、店は再度焼失。 当時、店の地下にあった防空壕に店で使用する器等一式を入れ、命からがら逃げたと聞いている。 |
戦後
昭和22年(1947年) | 戦後の傷跡がまだまだ絶えず、 物資難の時代、店を再建。 江戸時代の屋台のすし屋をイメージして 当時の宮大工さんがくぎを一切使用せずに造ったカウンターです。 |
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昭和23年(1948年) | 当時GHQからの要請で、 衛生上から調理場(カウンターの中)と お客様との間に網戸を貼りました。 写真内のカウンター板に見える溝にその網戸を貼ったそうです。 委託加工の許可がおり、序所に営業再開となります。 写真は当時委託加工指定店として掲げていた看板です。 お米を持参してきたお客様にのみ鮨を作って販売してよいというもので、中には、たんすに大事にしまいこんでいたお米を持参されるお客様もいらして、お米にしょうのう剤の香りが染込んでいたと聞きます。 店頭での飲食は許可されておらず、自宅の2階にお客様をあげ、見つからないよう、こっそりと召し上がって頂いたケースもあったようです。今となっては、時効でしょうか?……。当時は握るネタも少なかった為、あさりやボラ等も握ったそうです。
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現代
平成15年(2003年) | 店の建て替えを行う。現在に至る。 すしを囲み、気のあった仲間やご家族と、 ゆっくりおくつろぎ頂ける空間づくりを大切 にしております。 |
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参考画像
昭和20年代の店 | |
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昭和30年代の店 | |
昭和40年代の店 |